技術資料は公式には全部焼却したので残っていない 技術教育 中島のエンジン製造技術 スーパーチャージャー インペラー破損事故 日本の列型エンジンが成功しなかった理由 中島星型エンジンの2系統 中島飛行機(株)とライト社との関係 シリンダバレルの材質を窒化鋼に変更 誉エンジンの故障(不調)の種類 八田龍太郎説 ブリストルとライトのシリンダ構造相違の詳細 クランクケース内の潤滑油過多説 中村政一説 中島エンジン技術の重大な誤り 誉エンジン設計担当者の最終判断 誉エンジン失敗の反省

6.中島飛行機のエンジン技術

6.1.技術資料は公式には全部焼却したので残っていない
 エンジン開発部門では終戦直後に、全資料(写真・図面・技術報告書等)の焼却命令が出た。
 私達 NBH(ハ44)設計班は、山梨県上野原町の甲斐絹検査場の2階に疎開していた。検査場のボイラーを借りて3~4日がかりで焼却する程の量であった。現在残っている資料は、個人でこっそり保管したものが主で一部集荷洩れがあるだろう。
 中島飛行機のエンジン技術に関する出版物は、前記1952年(昭27)7月「航空情報」誌に発表された関根技師長の「中島発動機20年史」と、1985年(昭60)5月に発行・発売された中川良一、水谷総太郎共著の「中島飛行機エンジン史」の2っだけではないかと思う。私は前者を見ていない。
 後者は、「中島飛行機エンジン史」巻末の“執筆覚書”にあるように、資料の収集に苦労している。資料は元海軍監督官の他、設計部、研究部、実験部、試作工場勤務経験者22名から、写真、文書、記憶、手記の形で集められた。このため、資料にはむらがあり、すべてが一様に集まっている訳ではなく、今となっては不明の事柄も多い。
 ついでに書いておくが三菱他のエンジン製作所も、終戦時中島と同様なことが行われ、資料が失われたのではないかと思う。

6.2.技術教育
 エンジン開発部門の古参技術者達は若い設計者の技術力不足に気付いていたので、教育に力を注いだ。特に、新入社員教育を重視した。研究部長、試作工場長、設計部統制班長が熱心であった。
 私の経験を少し書いてみる。
 研究部長 福島榮之助理学博士は理科学研究所よりの転職者であるが、設計者の材料と機械工作法に関する知識が不足していることを重視して、1941年(昭16)東大原動機1年、2年の学生実習を引受けたとき、自ら教育担当となり実習に関する訓話をした。その要旨は“自然現象をよく観察して、自然現象に学べ”と言うことであった。社内では「物(ブツ)に学べ」と説いたので渾名を物と呼んだ。研究は空き缶と半田ごてがあれば出来ると、実験設備の不足を補った。しかし実際にはエンジンの基礎研究に必要な設備を多量に設置して、研究の促進を図った。その結果、研究は次第に高度となり、航空学会における研究報告は東京大学航空研究所に比肩するレベルに高まった。
 私達の実習は1年生は機械工作、2年生は熱処理、鋳造、鍛造で、夏休み中2週間ビッシリ行われた。
 試作工場長 溝口有作は、エンジンの開発は試行錯誤によるものであるとの考えから、エンジン技術の向上は試行錯誤の繰返しが、短期間で行われることが重要であるとした。私が入社後初めて試作依頼した簡単な部分品でも、1個の完成品を造るのに初工程に3個かけてくれた。途中不良品がでても初工程から作り直すことを省くためであった。ただし、試作品が倉庫に入庫すると入庫通知があり、直ちに受出しに行かないと機嫌を損じた。また、工場全体に新しい技術者の教育に便を計るように指令が行きわたっていた。私は製造工程に興味を持っていたので、シリンダの部分品の初工程から最終工程まで丹念に見てまわった。木型職場ではシリンダの吸入、排出ポートの図面と現物との関係を自分で確認するため、ホーの木で直方体を8個作ってもらい、削り出したりした。板金職場では図面に書くのが困難である、シリンダ導風板(バッフル)がどうして作られるか教えてもらった。
 設計部統制班は設計図を定められた規格に統一するため、全出図を点検し規格外を指摘するのが任務であった。規格には図法、部品名称と部品番号のとり方、材料・材質の記入法、設計基準があった。設計基準は統制班長 木村好太郎が海軍の特命を受けて、ドイツ メッサーシュミット社に留学して持ち帰ったと聞いている。初級者が設計しても熟練者と同じ質の設計が出来るように、ボルトの締付標準を中心によく出来ていた。すなわち、ボルトの太さと配置、めねじの深さ、ねじ座の構造、植込ねじの締め代、ねじの太さと常用ピッチ、ボルト材質等が規定してあった。さらに、強い締付をするときの特殊規定があり、ボルトの材質は強力ボルトを除外してはすべて75kgNi-Cr鋼であった。これは部隊の整備で、分解したボルトを区別しておく必要がないため喜ばれた。
 統制班の検図を終った設計図は、試作工場技術課長と日程課長の検図を受けた。技術課長は機械工作上の見地から、日程課長は常備材料であるかどうかを点検した。
 何れも図面の要修正箇所を色鉛筆で指摘してあり、設計者の手元に戻った図面は修正だらけであった。技術課長は自分で修正図面を設計者の席まで持って来て、修正の説明をしてくれた。
6.3.中島のエンジン製造技術
 中島のエンジン製造技術の確立は、ジュピターの生産指導によるものであった。1927年(昭2)6月ブリストル社からバーゴイン技師他2名の技術者が来日した。この3名の生産技術指導者は、ジュピターがライセンス通りの性能を発揮し、耐久性と信頼性を具備するように、製造全工程を懇切丁寧に指導した。特に仕上げ組立の重要性を強調した。
 次の小話は試作組立職場の一組立工が、部品の破壊破面をよく観察していた一例である。
 試作中、生産中に限らず、エンジンに重大な故障が発生すると試作工場組立職場事務室で対策会議が開かれた。出席者はエンジン担当設計者、試作工場長、組立職場の係長、組長を初め関係技術者が招集された。私は招集されなかったが許可を得て会議を傍聴した。
 会議での発言に発言者の保有技術がよく表れていた。

6.3.1.スーパーチャージャー インペラー破損事故
 エンジンは初めて2連になった NAL(ハ109、1,450ps)であったと思う。
インペラーが粉々に破損し、インペラーの吸気側の入口に取付けられていたガーグルチューブが根元から折れていた。ガーグルチューブの折損がインペラー破損の原因ではないかという説が出た。
 出席していた試作組立組長 中村政一は、インペラーの破損が先で、破片がガーグルチューブに当たり折損したものであると断言した。この説に疑念を抱いた人が多かったので、中村組長は新品のガーグルチューブを倉出して、根元をバイスに固定し金槌でチューブ部分を一撃して、故障品と全く同じ断面を再現した。中村組長は曲げて見せようかと言ったが、それには及ばず中村説を全員納得した。
 インペラーの破損は研究部の研究で、インペラーバックプレートの自励振動が原因であることが判明し、バックプレートを強化することで対策された。
 中村政一は元家庭用手押しポンプの修理を業としていたが、中年で中島に入社した人で、物をよく観察していた。これは、組立職場の組長級でも高い技術力を持っていた例である。
6.3.2.日本の列型エンジンが成功しなかった理由
 中島のみならず日本の列型エンジンが成功しなかった理由について考えてみる。航空エンジンは小型、軽量、大出力で、その上信頼性が最重要である。
 これらの項目を綜合したエンジン性能は戦争の勝敗を支配した。このため、欧米各国は最高の製造技術を航空エンジン製造に駆使した。
 日本は開国以来欧米の技術を盛んに導入したが、その遅れを容易には取り戻せなかった。航空エンジンを製造するようになっても工作機械、工作技術のみならず、材料、燃料等すべてを輸入に頼らなければならなかった。
 航空エンジン部分品で最もてこずったのは、精度の高い長いクランクシャフトの製造であった。
 浸炭焼入れで硬化した6クランク(直6、V12、W18シリンダ用)の長い軸を製造することは至難の業であった。
 三菱は1920(大9)イスパノ・スイザ200ps、300psのライセンス生産を開始し、その後450ps、650psのライセンスを購入して生産した。イスパノのエンジンを選んだのは、高性能指向の強い海軍の指示によるもので、軍の猛訓練のためとも言われるが、馬力向上と共に故障が激増した。そして、海軍は三菱のイスパノ・スイザの使用を取り止めた。
 このため、三菱は列型エンジンの製造を断念し、1926年アームストロング・シドレーの製造ライセンスを取得して空冷エンジンに転向した。
 BMWは第1次大戦後、直列水冷エンジンの開発を始め1926年(昭1)、BMW水冷列型V12シリンダ、46.95 l 62型 660psに成功した。日本の川崎はライセンスを入手し、生産エンジンを陸軍に納入した。
 BMWは一時期メッサーシュミットに買収され、1927年(昭2)開発範囲が製造容易な空冷星型エンジンに広げられて、1929年(昭4)プラット&ホイットニーとホーネットのライセンス契約を結んだ。BMWの空冷エンジンは発達を続け、BMW801A型は1940年(昭15)1,600psとなった。このシリーズの総生産は6,100基を超えた。
 しかし、三菱とBMWはともに6クランクの長いクランクシャフトの量産にてこずったのが、空冷エンジンの転向の原因であったのではないかと思われる。
 最後まで長いクランクシャフトの列型エンジンにこだわった、ダイムラー・ベンツ(DB)と中島の場合は何故であろうか。
 DBはクランクシャフトベアリングに使用する錫が戦時中入手出来ないので、ベアリングにスウェーデン鋼のころがり軸受を選んだ。コンロッド大端用は樽型ころがり軸受であった。この構造は極めて高精度の加工を要した。元来、ドイツの機械加工精度は日本より一桁高く1ミクロン単位であるが、軸受の故障は少なくなかった。
 日本は戦時中DB600シリーズを川崎(陸軍)、愛知(海軍)がライセンス生産を始めたが、飛行機に搭載できるエンジンは1基も生産できなかった。
 中島はこれらの例に見るように、難物エンジンの開発を何故10機種も続けたのか判らない。試作台数は各機種1台(2台が1機種ある)であるが、成功したものは1台もない。海軍・陸軍の命によるものが多いが、惰性であったとしか考えられない。列型エンジンでも4シリンダと6シリンダでは、クランクシャフト加工の難易差が大きい。中島が最初にライセンス導入したロレーン450psは12シリンダW型24.4l、450psであり、海軍のライセンス導入は中島の以前であり6シリンダV型23.6l、400psであった。
 海軍はその後ロレーンの性能向上型を設計・製作したが、W型12シリンダエンジンであった。

6.3.3.中島星型エンジンの2系統
 中島は多種の欧米エンジンの製造ライセンスを購入した。その中で製造ライセンス通りに製造されたのは、最初のブリストルジュピター6型、7型、9F型のみで、その他は自主設計の参考資料用であった。
 本書のテーマとなるシリンダとピストンは、最初のブリストルと1934年(昭9)導入したライトサイクロンR-1820Fの2機種に関するものである。
この2機種はシリンダバレルの材質が異なり、シリンダヘッドとの組立部構造も異なり、ピストンの形状は全く異なっていた。
 NAH(寿系)はジュピター(ボア146mm×ストローク190mm)を設計変更してNAHとする時、ストロークを160mmに短縮すると共に4バルブを2バルブとし、動弁装置を全面的に簡単にした。これが寿1型と2型であり、シリンダバレルとヘッドの結合構造ならびにピストンは変更しなかった。
 1934年(昭9)ライトサイクロンR-1820Fの製造権を取得したが、ライトの生産技術を習得したのは1937年(昭12)であった。
 ライト社のシリンダバレル材質は窒化鋼で製造容易であったので、中島で自主開発したサイクロンより大型シリンダの ハ8と寿1型、2型のシリンダバレルを窒化鋼に変更し、シリンダヘッド結合構造もライト方式とした。
 ピストンとシリンダは一組となるもので、シリンダを変更すればピストンも設変すべきもので、この場合はピストンもライト方式にすべきであった。ハ8はサイクロンのイミテイションエンジンであったので、ピストンはサイクロンに似たものであったかも知れない。
 寿のピストンは設変されず(エンジン外径不変)エンジン型式は寿31型(ハ1甲)、寿41型(ハ-乙)となった。
 ハ-甲は陸軍の97式戦闘機に初めて採用された。1939年(昭14)ノモハン事件で大活躍した。
 しかし、満州での使用でシリンダ内面に段摩耗を生じ、点火プラグの汚損が発生した。(詳細は11.15~11.17を参照)

6.3.4.中島飛行機(株)とライト社との関係
 中島は1928年(昭3) ライト社よりJ-5ホワールウインドのライセンス購入
    1934年(昭9)  〃   サイクロン1820F    〃
    1937年 (昭12) サイクロンの生産技術習得のため技師4名をライト社に派遣
    1939年(昭14)武蔵野工場の生産倍増の指導にライト社技師2名を招聘
 ライト社の技術には、これほどの魅力があったかどうか疑問である。特に生産技術は工作機械メーカーであるP&Wの方が優れていたと思う。
 ライト社は社名にライト名が使われているが、度々経営者と技術指導者が代った。1929年(昭4)カーチス社と合併してカーチス・ライト社となり、経営的に助けられ、開発チームは合体し強化された。1932年(昭7)R-1820F900psのサイクロンを完成して有名になった。その後、14シリンダ、18シリンダのサイクロンシリーズを完成させた。
 中島がサイクロン1820Fを導入したのは上記のように1934年(昭9)で、1820Fが完成した2年後であった。中島がライト社と深い関係になったのは、仲介役の三井物産の活動があったと思われる。
 中島知久平が飛行機の試作に成功し、陸軍から練習機40機の注文を受けた。その4ヶ月後、三井物産のアメリカ駐在員からエンジンの買物が200位あるから買わないかと言ってきた。中島は井上中将と相談して100基注文した。これは、出資者 川西に不安を与え、中島所長が解雇される原因になった。
 中島は井上中将の仲介によって三井物産と提携した。以後、三井物産は中島の飛行機を一定の歩合をとって販売し、資金援助をすることになる。また、工作機械、材料、資材の輸入を一手に行うことになった。
三菱は三菱商事があり、中島の三井物産の役目をしていたであろう。中島はP&Wのエンジンライセンスを導入したこともあるが、中島はライト、三菱はP&W系と住み分けが生じたのであろう。
 1930年(昭5)代になると、陸軍は双発爆撃機と偵察機用に、海軍は艦上戦闘機と同爆撃機用に大馬力エンジンが必要であると考えた。大馬力を発生する複列星型エンジンはまだ開発中であり、大型単列星型エンジンに期待をかけた。陸軍用ハ8が先行し、1931年(昭6)陸軍より試作命令が出た。星型空冷9シリンダで、シリンダは160×180mmという大型で、総排気量は32.6 lあった。1934年(昭9)出力640ps/2,800rpmで陸軍に制式採用された。ハ8である。この当時の、ライトとP&Wの大出力エンジンは
   P&W  1926年(大15) 27.2l 415ps
        1930年(昭5)  30.5l 500ps
   ライト  1932年(昭7) 29.9l 900ps(R-1820サイクロンF型)であった。(中島のライセンス取得は1934年(昭9)4月5日)
ハ8のシリンダは最大であったが、出力も先ず先ずであった。ハ8は先ず陸軍の97式司令部偵察機の試作機に搭載された。朝日新聞の東京-ロンドン間、短時間飛行記録機“神風”は試作2号機で、陸軍の使用許可を得て払下げを受けたものであった。機体は三菱製であった。
 中島は1934年(昭9)4月サイクロンR-1820Fの製造ライセンスを購入しているのに、生産技術を習得するため技術者をライトに派遣したのは、3年後の1937年(昭12)であった。この理由は判らない。
 ハ8がサイクロンR-1820Fの真似であることに、後ろめたさを感じていたのかも知れない。現実に、技術習得の技師達は初めスパイ扱いをされた。
 技術習得の技師4人がライトの工場に到着した頃、神風がロンドンに到着し、そのニュースがライト社にも入った。
 ライト社は、すでに中島が模倣サイクロンを生産したと速断し、中島技師に工場立入りを禁じた。
 これは程なく解決したが、このような事件が生じたことがあった。
 ハ8はサイクロンの製造技術が採り入れられ、ハ8�型となり、海軍にも制式採用され「光」と命名された。
 サイクロンの製造ライセンスを取得してあるから、このとき製造技術だけでなく、設計技術もそっくり採り入れなかったのは何故であるか判らない。
 光はその後性能向上が行われたが、最大840psであった。理由はシリンダ径が大き過ぎて燃焼が悪かったとされている。
 サイクロン1820Fの設計技術をそっくり採用しておれば、小型で軽いエンジンで900psは出た筈であり、ライトの設計技術をマスターしておれば、その後の中島設計技術の向上に繋がったと考えられる。誠に残念である。

6.3.5.シリンダバレルの材質を窒化鋼に変更
 中島がライトサイクロンの技術導入目的には、サイクロンのシリンダバレルの製造技術の取得があった。ライト社はシリンダバレルの材質に窒化鋼を採用し、製造工程を大幅に簡略化し生産性が良かった。窒化鋼の使用はライト社のみであった。
 製造技術者が4人も技術習得にいった。工場設備の熱処理工程の大幅な変更が必要であり、新設として窒化防止の錫メッキ槽と窒化炉がある。シリンダバレルは大きな部品ではないが数が多く、また窒化工程には40時間を要した。
 熱処理工場は独立建屋であったが建坪は小さく、設備が増えると余地は狭くなった。当時製造中であった寿エンジンのシリンダも、光と同時にCr-Mo鋼から窒化鋼に切り換えられた。
 寿はブリストル系のシリンダであるのに、材質変更の影響は全然検討されなかったようである。これが寿系エンジンの不調原因になるとは誰も気付かなかった。

6.3.6.誉エンジンの故障(不調)の種類
 NBA誉エンジンは、中島エンジン中最も多量(他社製を含め30,133基)生産された栄系ボア 130mm×ストローク150mm、14シリンダ、27.9 lを18シリンダにしたものである。
 航空エンジンの性能評価は kg/psとps/�(正面々積値)でなされる。
エンジンの出力向上は圧縮比、回転数、過給圧の向上によることは、今も昔も変らない。
 NAM栄の最終型(31型、ハ115)は、圧縮比7.2、離昇出力は過給圧+300mmHg、回転数2,750rpmで、出力1,150psであった。これは41.2ps/l である。誉の最終型(誉21型、ハ45・21型)は、圧宿比7.0と下げてあるが、過給圧+500mmHg、回転数3,000rpm、出力2,000psであった。これは55.9ps/lである。
 中島最初の二重星型エンジンNAL(ハ5、ハ41、ハ109陸軍専用)は、中島最初の自主開発エンジンNAH(寿1~4型)の14シリンダ化である。
 NAHの最終型の性能は、圧宿比6.7、過給圧+200mmHg、回転数2,600rpm、出力710psであった。すなわち29.5ps/lである。

以上の数値を表にすると次の通りである。 
型式 ボア×ストロ-ク
mm シリンダ
数 圧縮比 ブースト
mmHg 回転数rpm 馬力
ps l当り馬力
ps/l ピストン速度
m/sec 生産量

NAH 146×160 9 6.7 +200 2,600 710 29.5 13.9 約7,000
NAL 146×160 14 6.7 +300 2,650 1,500 40 14.1 7,366
NAM 130×150 14 7.2 +300 2,750 1,150 41.2 13.75 30,133
NBA  〃 18 7.0 +500 3,000 2,000 55.9 15
 この表により以下のことが言い得る。
 NALはNAHの吸気圧を+100、ピストン速度を少し上げて、ps/l 値を約10ps/l向上した。この性能で7,366基生産されたが、大きなエンジン故障は聞いていない。
 NAMはシリンダが小型化され、燃焼上は楽となり、ピストン速度も低い。ps/l 値は僅かな上昇の41.2ps/lで信頼性が高く、陸軍にも海軍にも好評で川崎、石川島でも製造され、総生産数は30,133基に達し中島エンジンの名声を高からしめた。
 NBA(誉)はNAMの名声を受けて18シリンダ化したが、高性能化に熱中して吸気圧とピストン速度を急に上げて55.9ps/lを得たが、問題エンジンとなった。
 18シリンダ化には設計上の工夫(前後列間の拡大・その他)が加えられているし、燃料は100ON使用条件であった。しかし、1940年(昭15)日米通商航海条約の失効後、航空燃料、材料等 軍需物資の輸入は止まり備蓄していた物資は次第に底をつき、誉が生産に移った頃は高オクタン燃料は入手難になっていた。
 また、設計上もシリンダ冷却能力を始め、多数の問題を含んでいた。
 海軍の訓練部隊からの連絡では、プロペラ減速機豆ピニオンのフローティング ブッシュの焼付と、コンロッド大端ベアリングの焼付発生が時々あった。
 苦情が常時出ていたのはエンジンの油洩れであり、洩れる場所が特定できなかった。油洩れはエンジン故障の兆候ではないかと不安がられた。また、オイル消費を増大するので、長距離飛行のときはオイルタンク容量が気になった。
 油洩れは米国より輸入し備蓄していた、耐熱、耐油のOリングとガスケットが無くなったためであると言われていたが、三菱エンジンや中島の他のエンジンでは問題はなかった。
 誉のクランクケースは鋼の鍛造(タイヤミルによる)材よりの削り出しであったが、剛性不足でエンジン全体がふにゃふにゃで、あらゆる組立接合面から油が滲み出ていたのではないかと思う。

6.3.7.八田龍太郎説
 満州で最初に発生した中島エンジンの、シリンダ段摩耗に関する研究は八田龍太郎の報告が多数あった。私はNBH(ハ44)のシリンダ設計担当であって、シリンダ摩耗に関しては特に強い関心を抱いていたので、八田報告を熱心に読んだ。記憶に残っている八田説の論点は以下のようである。
 � 満州で特に摩耗が顕著なのは、満州特有の砂塵による。
 � これを助長するものは焼嵌めによるシリンダ内径の急変である。
 � したがって焼嵌部をインロー部-ねじ部-インロー部と3段にして長くするとともに、締代を順に小さくしてゆき、内径の変化をなだらかにすればよい。
この説はなかなか納得性のあるものであった。一項づつ検討すると、飛行機
は高空を飛ぶので砂塵の影響は少ないと考えられるが、第2次大戦中でも陸軍の飛行場は滑走路の舗装がなく草原であった。(海軍は前進基地も舗装してあった。)そのため編隊離陸では先頭機以外はもうもうたる砂塵を吸入した。
� ライト方式はシリンダ内径の先細りはピストンリングの外径を収縮させるため、リング外周とシリンダ間に強い当たりを生じ、リングとシリンダを摩耗させる。内径の変化が急であればある程摩耗が促進される。
� したがって、内径の変化をなだらかにすればよい。
 八田龍太郎はこの説にかなり強い自信を持っていた。誉の不調対策会議でも提案されたが、これも試作実験されずに葬られた。
 私は、この八田説をNBH(ハ44)のシリンダ設計に適用した。すなわち、焼嵌部は先端よりインロー-ねじ-インローとなり、下端のインロー部の長さだけ焼嵌部が長くなる。焼嵌代は先端より下端に行くに従って小さくする。この構造でも問題が残る。それは図面に指定したような加工公差のねじができるかという問題である。ねじは形状が複雑であり、嵌合いが期待通りにはできない。焼嵌めねじは特に精度を要求するのでシリンダバレルは研磨、シリンダヘッドは遊星方式のホブで加工するが難物であった。
 NBHでは新たな問題が発生した。下のインロー部のシリンダバレルの外径はねじ外径以上でなければならないので肉厚が厚く剛性が高くなる。焼嵌代は最小ではあるが、試運転でシリンダヘッドが割れ始めた。急遽、ブリストルのようにシリンダヘッドの下部に鋼製リングを焼嵌めして対策した。以後、性能運転・耐久運転を通じてシリンダの割れは発生しなかった。
 この構造の効果を確認する前に終戦となってすべては終った。
 八田は焼嵌部のバレルの先細りが段摩耗の原因と着目したが、この研究が更に進められて、変形量に制限を加えれば段摩耗は小さくなる。そのためにはシリンダの温度上昇限度を設定すれば良いことに気付いたならば、中島のエンジン技術の進歩の方向は大転換したであろう。誠に残念なことであった。 私のこの思いつきは後日、ライトサイクロン系の冷却仕様を知ったことによる。
 また、八田はピストンのシリンダとの当たりをよく観察していたであろうか。当たりに異常があってもピストンの当たり部分の形を修正するのが、中島試作工場の習慣であったので、八田は気付かなかったかも知れない。
 強い当たりの出た部分を修正することは、何時何処から伝わったのか分らないが、ロールス・ロイスのヘンリー・ロイスの教えに逆行するものであり、耐久性・信頼性の優れたエンジンは出来ないのである。

6.3.8.ブリストルとライトのシリンダ構造相違の詳細
 ブリストル方式
  シリンダ:材 質 イ202(75kgCr・Mo鋼)
       材 料 筒型鍛造材
       熱処理 焼準-焼鈍-焼入-焼戻
       熱処理後の硬度は冷却フィンが削りだせる硬度におさえる
       内外面旋削および研削仕上
  シリンダヘッドに焼嵌め シリンダの先端を尖らせてヘッドに食い込ませてガス止めとする(焼嵌部はインローなしで全ねじのためガス洩れするので)
シリンダヘッド下端に鋼環焼嵌め
(焼嵌めの締代が小さいのでゆるみ防止)
  シリンダ内外面仕上研削 シリンダ内面は真円、真直にホーニング仕上
  クランクケースへの取付ボルト孔加工
 
ライト方式
  シリンダ:材 質 イ111(アルミニューム窒化鋼)
       材 料 筒型鍛造材
       熱処理 焼準-焼鈍
           熱処理後の硬度(ブリストルに同じ)
       荒旋削 全面窒化防止Snメッキ-内面研削Snメッキ除去
          -窒化(40時間)
       外面旋削(冷却フィン)-外面研削仕上(焼嵌インロー部と
          ねじ)-内面研削とホーニング仕上(真円、真直)
  シリンダヘッドに焼嵌め 焼嵌め深さは治具止め(ねじ上部のインローで
              ガス止め)(内径は先つぼまりとなる)
  クランクケースへの取付ボルト孔加工
  特徴  シリンダ内面はビッカース700以上の硬い硬化層が得られる。
      ただし、窒化には40時間かけても薄い硬化しか得られない。窒
      化は温度が低いので長時間加熱しても基材の変化はない。硬化層
      は薄いので完成シリンダにホーニングを強くかけると硬化層の硬
      い部分がとれて軟らかい部分が出る。

6.3.9.クランクケース内の潤滑油過多説
 この説は誉エンジン設計担当者から出たと記憶している。クランクケース内の潤滑油が多過ぎるとピストンからの油上りが多くなり、排気の焔色は赤く変色し、点火プラグは汚損し、エンジン不調になるというのである。
 この説に対しては、ライト系シリンダとピストンを持つ大型エンジンの設計担当者から、クランクケースに油が充満してガス抜きから油が吹き出すようになっても排気の焔色は青色から変色しなかったと反論があった。
 この説も反論により試作実験は行われずに立消えとなった。
 ライト系とブリストル系の差はシリンダ構造の他にピストンのスラスト面の長さ(スラスト面の長さ/外径の比)に大差があったが、これは議論の中には出なかった。ブリストルのピストンは他のどのエンジンよりもスラスト面の長さが短かった。そのためシリンダ構造には特別な配慮が加えられていたのに、これに気付いていなかった。(NAH、NAL、NAM、NBA、NBHのピストン設計はブリストル系である。)
 誉の潤滑系はライト系であり、バランスウエイトの外周に遠心力で閉る自動給油バルブがついていた。アイドリング運転ではシリンダに給油し高速で止まる作用である。ただし、油温が低く粘度の高い時は殆ど出なかった。

6.3.10.中村政市説
 誉の対策会議で上記のような提案が出つくした後、元家庭用手押水ポンプの修理業者であった試作エンジン組立工の中村政市が新提案を出した。
 馴らし運転でピストンへの給油が不足しているのではないかというのである。これは機械の実技に携わっている人なら誰でも経験していて、新組立機械の摺動部分に、始動前に必ず注油することを心得ていた。
 中島でもエンジン組立時にシリンダとピストンにタップリ給油して組立て、予熱したオイルを用いて始動していた。しかし、始動暖気中の混合気は過濃状態であったので、組立時の給油は洗い流される可能性があり、予熱したオイルを給油しても冷たいエンジンに入ると温度が下がり、粘度指数の低い当時の潤滑は給油不足になる懸念があった。
 私は前記したようにジュピターとBMW801の取扱説明書に次のように書いてあるのを読んでいた。
ジュピター
 始動時シリンダ自動給油装置付きで、この装置は油温が低く、粘度の高い期間中プレッシャーリリーフに出るオイルの全量をクランクケース内に注入する。
 BMW801
 これは始動時に油圧を自動的に上げる装置付で、常時7kg/cm2 の油圧を15kg/cm2 に上げると説明されていた。
 また、アイドリング運転を長時間するな、その必要な場合はエンジンを停止せよと注意書きがあった。この当時ドイツの点火プラグの絶縁体は既にセラミックスであって、日本のプラグより熱価がワイドレインジであった筈である。
 私は中村説は試作実験の価値があると判断して実機エンジンでの実験を提案した。誉の設計担当 中川良一の許可が得られたので、ジュピター方式を実験した。副作用の発生はなく効果があるように見えた。(新製エンジンではなく、段摩耗シリンダの再ホーニングシリンダを使用。)
 新製エンジンへの適用は主機班で設計したが、私の試作と異なった部分があったためか、結果はあいまいで、この対策はうやむやで終った。
 以上を総合すると、誉の不調原因はその対策会議で、次の4っが原因ではないかと提案されたが、徹底した究明は行われなかった。
 � ブリストル系シリンダをライト系シリンダに変更したこと
 � 焼嵌めによる内径変化が先つぼまりであること
 � クランクケース内の潤滑油の過多
 � 馴らし運転中の給油不足

6.3.11.中島エンジン技術の重大な誤り
 以上�~�項目には最も重要な1項目が入っていない。それは、ピストンに生ずる強い当たりの修正の可否である。
 中島の組立技術は運転で部分品に生じた強い当たりを修正することが常套手段であった。これを放置すると焼付に至るからである。
 この場合は強い当たりの生じた原因を追求して、その根本原因を対策するのが正しい方法であるが、この方向については誰も考えなかった。
 エンジンを性能向上する度に、修正を繰返していると、ピストンとシリンダの隙間はガタガタになり、暖機運転中のガス洩れがひどくなり、ピストンリングとシリンダが早期に摩耗し、温度が上昇したときオイル上りを制御できなくなる。
 これが、誉(ハ45)が信頼性を失った原因である。

6.3.12.誉エンジン設計担当者の最終判断
 昭和16年(1941)7月、米国の在米日本資産凍結措置により、航空機用資材(金属材料、燃料、潤滑油等)の大部分を米国よりの輸入に頼っていたのに、その供給が止まり、代用材の使用・燃料・潤滑油の質の低下に加え、製造工場では徴用工の多用により技能が低下した。誉エンジン設計担当者は、これらがエンジン不調の原因と考えていたので、なす術はなく終戦をむかえた。
 しかし、三菱も中島と全く同一条件にあった筈であるのに、三菱は実戦で役立つ飛行機を終戦の日まで製造し続けた。これについて中島設計者のコメントを聞いたことはない。そしてまた、米軍が日本より持ち帰った誉を米軍の使用する100オクタン燃料と潤滑油を使用して、性能運転を行い2,000馬力を計測し誉の高性能を確認したので、誉20型は世界一高性能であったと自負した。これは、何も米軍に確認されるまでもなく、日本海軍が認めていたことである。
 この主張の中には重大な誤認がある。それは運転台上で高性能であることと、実用飛行機エンジンとして高性能であることは同一ではない。すなわち、実用飛行機エンジンは耐久性・信頼性が絶対条件である。
 飛行機用では速度記録は3kmのコースを2回往復できるだけの耐久性があればよいのであり、自動車エンジンはF-1レース用は2時間、ルマンレース用は24時間耐えればよいのである。

6.3.13.誉エンジン失敗の反省
 以上で一先ず誉エンジン失敗の話を打ち切る。
 失敗の最重要点はエンジンの温度は何度(℃)が限界であるかに全く考えが及んでいなかったことである。これについては最終章で詳しく述べる。
 ここでは、これに関連する事項について述べるに止める。

 � エンジンの本質をよく理解していなかった。
ここでエンジンの本質とは、エンジンの進歩は理論ではなく、試行錯誤に
よるものであることを指す。このことは、富塚教授、MITのC.F.テーラー教授、日産自動車でエンジン設計を指導したドナルド・ストーン等は、全く同じことを説いている。大学を卒業したばかりでエンジンの実務経験の乏しい設計者達は、このことを全く知らないで、一人前の設計者になったつもりであった。

 � エンジンの機構部分で試行錯誤に頼る部分は、ピストンとシリンダの耐久
性とこれによって生まれる信頼性である。

 � 欧米著名エンジンの使用したボア、ストローク。
 上記�を求めることは容易ではない。このため、信頼性のあった欧米一流
 エンジンの使用したボア径は、すべて下記のごとく唯一種であった。
             ボアmm ストロークmm
   ロールス・ロイス 137 152 マーリン(V12)
   ブリストル     146 191 ペガサス(R9)
            〃 165 マーキュリー(R9)
             〃 〃 ハーキュリーズ(R14)
                       (スリーブバルブ)
              〃 178 セントーラス(R18)
                         (スリーブバルブ)
   ライト       156 170 サイクロンR-1820
                           (R9)系
              〃 160.3    〃    R-2600
                           (R14)系
              〃 〃     〃    R-3350
                           (R18)系
   BMW       156 156  801(R14)
   P&W       146 140 ツインワスプ(R14)
              〃 152 ダブルワスプ(R18)
   三菱        140 150 金星シリーズ
              〃 130 瑞星シリーズ
             150 170 火星シリーズ
   中島(参考)    10種類
 100、 110、120、130、135、140、146、150、155、160
 � 見本エンジンをそっくり真似なかった。
見本エンジンにはノウハウが多数入っているが、経験豊かな技術者でないとどこがノウハウか判らない。中島は欧米より製造ライセンスを多数導入したが、ライセンス通り製造したのはロレーンとジュピターのみであり、これらはいずれも国産化に成功した。
 その後、上記の10種類ものボアを使って自主開発したが、成功例は僅かであった。
 中島の長老的技術者はこの事に気付いていた。
 後日、富士精密工業で自動車エンジンの設計に際して、新山専務は見本エンジン プジョー202をそっくり真似よと指示したが、これが守られず設計担当になった私は苦労した。

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